「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」はサステナビリティ経営へどう影響するか?
岸田政権が2021年の発足後に打ち出した「新しい資本主義」では、デフレ心理を払拭し、成長と分配の好循環、賃金と物価の好循環を実現することを目指しています。またGX(グリーントランスフォーメーション)、エネルギーなどの課題の解決を成長の機会と捉え、イノベーションを促進しようとしています。
このように「新しい資本主義」は今後の企業経営にとって新たな機会を提供すると同時に新たな課題も提起しており、広範囲な層のビジネスパーソンが関心を寄せるべきだと考えます。
そこで、本コラムでは、2024年6月21日に閣議決定された「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2024年改訂版」(以下「グランドデザイン2024」)の提言内容が日本企業のサステナビリティ経営にどのような意味を持つのか、特に環境、人的資本経営の2分野に焦点を当てて、日本企業が留意すべき機会と課題機会と課題について考察します。
「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」の沿革
岸田政権発足直後の2021年10月、内閣官房の中に「新しい資本主義実現会議」が設置され検討が始まりました。2022年6月に第一次の「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」が閣議決定され、その後2023年6月の改訂を経て、2024年の改訂版が2024年6月21日に閣議決定されています。
<「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」の閣議決定時期>
第1次 2021年10月26日検討開始 2022年6月7日 閣議決定(※1)
第2次 2022年10月4日検討開始 2023年6月16日 改訂版閣議決定(※2)
第3次 2023年8月31日検討開始 2024年6月21日 改訂版閣議決定(※3)
(※1)「新しい資本主義の グランドデザイン及び実行計画 ~人・技術・スタートアップへの投資の実現~」(内閣官房ホームページ)
(※2)「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2023改訂版」(内閣官房ホームページ)
(※3)「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2024年改訂版」(内閣官房ホームページ)
新しい資本主義を実現するうえでの基本的な考え方と各年版の構成
前段で「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」の沿革を記しましたが、2022年の第1次報告書から2024年の改訂版に至るまで、「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」では一貫して、下記(1)~(3)の3大基本テーマが設定されており、そしてそれらの基本テーマに則って詳細な各論が展開されています。
(1)分配の目詰まりを解消し、さらなる成長を実現
・価格転嫁、省力化投資による生産性向上を通じた賃上げの定着
・ジョブ型人事、労働移動円滑化、リスキリングによる適材適所
(2)技術革新に合わせて官民連携で成長力を確保
・GX、DX などのイノベーションによる社会課題解決と競争力向上
・コストカットではない、付加価値創造やマークアップ確保を促進
(3)民間も公的役割を担う社会を実現
・社会課題解決を通じた新たな市場の創造
・外部不経済の内部化など、社会課題解決に民間投資と人材が向かうための施策導入
図表1に示す各年版の章構成の変化を見ると、その時々の重要な政策課題に独立した章が割り当てられていることが読み取れます。例えば2022年の第1次報告書では「III. 新しい資本主義に向けた計画的な重点投資」に一括りにされていた賃上げや科学技術・イノベーション分野への重点投資が、2023年改訂版の章構成では3分割されました。
さらに2024年改訂版では「II. 人への投資に向けた中小・小規模企業等で働く労働者の賃上げ定着」という中小企業政策が別個の章を割り当てられており、いかに政府が中小企業の価格転嫁を重視しているかが伝わってきます。
また2023年改訂版からは「VII. 資産所得倍増プランと分厚い中間層の形成」が登場し、2024年改訂版では、「VII. 資産運用立国の推進」として引き継がれています。
人的資本経営に関連する「グランドデザイン2024」の項目
ここでは、「グランドデザイン2024」の中で、企業がサステナビリティ経営の中の人的資本経営(ESGのS)を推進していくうえで理解を深めておくべき重要な項目について解説したいと思います。「グランドデザイン2024」ではアベノミクス以降の成長重視の姿勢を継承しながら、厚い中間層形成を目指す岸田政権の「分配」重視の姿勢が明確に打ち出されており、サステナビリティ経営のうち人的資本経営に関連するものが多く登場します。それらの中で筆者が今後のサステナビリティ経営にとって特に重要と考える項目は下記2点です。
-中小企業・小規模企業従業員の賃上げ定着のための価格転嫁の推進
-非正規雇用労働者に対する同一労働・同一賃金の施行強化
1. 中小企業・小規模企業従業員の賃上げ定着のための価格転嫁の推進
日本がデフレを脱却し、分配の目詰まりを解消するためには、物価上昇を上回る賃上げ(実質賃上げ)が日本全体で定着する必要があります。そのためには日本の勤労者の約7割を占める中小企業勤労者の実質賃上げの定着が必要であり、中小企業における人件費の価格転嫁が円滑に進むことの重要性が「グランドデザイン2024」では度々強調されています。
筆者は以前から中小企業白書(毎年5月ないし6月刊行)には目を通しており、新しい資本主義に関する議論が始まる前からすでに中小企業庁が価格転嫁に大きな関心を寄せ、公正取引委員会とともに発注企業側への注意喚起を行っていることは認識していました。この「グランドデザイン2024」では、「II.人の投資に向けた中小・小規模企業等で働く労働者の賃上げ定着」という独立の章が新たに設けられており、いかに政府が中小企業の賃上げとその前提となる価格転嫁に心を砕いているかが伝わってきます。
「グランドデザイン2024」に先立つ2023年11月29日、内閣官房と公正取引委員会は連名で、人件費の適切な転嫁に関する指針(※4)を公表し、違反行為は独占禁止法上の優越的地位の濫用または下請代金法上の買いたたきと見なされるおそれがあることを明記しました。さらに2024年3月15日には、公正取引委員会は価格転嫁に応じなかった10社を公表することに踏み切りました。(※5)
一連の政府のアクション、および「グランドデザイン2024」の記載内容からは、「分配の問題は企業内の労使問題にとどまるものではなく、企業間の取引関係まで踏み込まなければならない」という政府当局の強い姿勢が読み取れます。中小企業との交渉、取引は表面的には納入価格の問題に見えますが、背景には中小企業の賃金転嫁問題が横たわっているわけであり、中小企業との取引が多い大手企業は対応を間違えると政府の介入や社会からの風評悪化を招来する可能性があることに留意する必要があります。
(※4)「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」(公正取引委員会ホームページ)
(※5)「独占禁止法上の「優越的地位の濫用」に係るコスト上昇分の価格転嫁円滑化に関する調査の結果を踏まえた事業者名の公表について」(公正取引委員会ホームページ)
2.非正規雇用労働者に対する同一労働・同一賃金の施行強化
日本全体では約2,100万人の非正規雇用労働者がいます(※6)。同一企業内での正規雇用と非正規雇用の待遇差を禁止する法整備(パートタイム労働法、労働契約法、労働者派遣法の改正)が進んだ後でも、厚生労働省の賃金構造基本統計調査を基にして内閣官房が行った調査によれば時給ベースで600円程度の賃金格差が存在しているとされています(※7)。この現状は、「グランドデザイン2024」が掲げる分厚い中間層の形成という政策目標とは適合しておらず、政府は労働基準監督署を通じて企業に待遇差の根拠説明を求めることで同一労働・同一賃金制を浸透させていく構えです。
先に述べた価格転嫁に関する独占禁止法に基づく社名公表のケースのように、今後、正規雇用と非正規雇用の間で合理的に説明できない待遇差を残しておくと、政府の介入を招きレピュテーションを毀損する可能性があります。
(※6) 「労働力調査結果」2023年(総務省統計局)
(※7) 内閣官房 新しい資本主義実現会議(第27回)基礎資料
3.人的資本経営での施策がサステナビリティ経営に与える影響
(1)企業のレピュテーション・リスク
中小企業・小規模企業従業員の賃上げ問題でも、同一労働・同一賃金問題でも、企業は対応を誤るとレピュテーション・リスクにさらされるおそれがあることを認識する必要があります。しかも、そのレピュテーション・リスクの源泉がマスコミやネットというよりも政府となって、ダメージコントロールが困難となるおそれがある点に留意しなければなりません。
先に述べたように中小企業との価格交渉・取引では背景に賃金転嫁問題が横たわっています。今後中小企業との取引に絡み大手企業が「値下げありき」のような姿勢で臨むと、企業名の公表などでレピュテーションが毀損するリスクがあることを認識すべきと考えます。また、正規労働者と非正規労働者の同一労働での賃金格差を放置した場合も、政府由来のレピュテーション・リスクに見舞われるおそれがあります。
(2)人材獲得難リスク
一度レピュテーション・リスクに見舞われた企業は、人手不足が深刻化すると人材の獲得や定着に困難をきたすことになります。特に上記のような政府由来のレピュテーション・リスクは一過性でなく存続性があるため、解消まで時間がかかることが懸念されます。
環境に関連する「グランドデザイン2024」の項目
ここからは、「グランドデザイン2024」の中で、企業がサステナビリティ経営の中の環境経営(ESGのE)を推進していくうえで理解を深めておくべき重要な項目として、「VI. GX・エネルギー・食料安全保障」(本コラムでは食料安全保障は対象外とします)について解説したいと思います。
1.GX、エネルギーに関連する諸施策と経済的インセンティブ
(1)諸施策
2015年に採択されたパリ協定を受けて各国で地球温暖化、気候変動への対策が活発化しており、温室効果ガス削減のための「カーボンニュートラル(※8)」が今やバズワードとなっています。日本でも2020年10月、菅義偉首相(当時)が「2050年カーボンニュートラル(※9)」を掲げ、さらに2022年に政府がまとめた「成長志向型カーボンプライシング構想(※10)」では、脱炭素分野で新たな需要・市場を創出し、日本の産業競争力強化を目指しながら脱炭素社会を実現するための、GX(グリーントランスフォーメーション)成長戦略を提示しました。
2032年まで150兆円を超える官民のGX投資が必要であると見込まれており、国としてもGX推進法に基づき20兆円程度のGX経済移行債を発行します(※11)。なお、社会における生成AIの活用は急速に進み、また生成AIを活用したデータセンターの建設も見込まれており、それらの動きに伴って電力消費量の増加が予見されます。そこで温室効果ガス排出を減らしながら、増え続ける電力需要に安定的に応えるため、「グランドデザイン2024」では以下の施策推進を明記しています(本コラムでは各施策の詳しい中身までは踏み込みません)。
・再生可能エネルギーの導入拡大(ペロブスカイト太陽電池、地熱発電)
・洋上風力の導入拡大
・地域と共生した再生可能エネルギーの普及
・系統整備と蓄電池等の促進
・原子力の活用
・水素の活用等
特に、再生可能エネルギーそのものの導入拡大にとどまらず、再生可能エネルギーについて回る、需要と供給の間の地理的ミスマッチと時間的ミスマッチを解消するための、「地域間の系統電力整備」(=融通容易化)、「蓄電池の推進」にも重点が置かれています。
(※8)「環境省脱炭素ポータル」
(※9) カーボンニュートラルとは二酸化炭素など温室効果ガスの排出を「全体としてゼロにする」ことであり、「排出量」 から森林などによる「吸収量」 を差し引いて、合計を実質的にゼロにすることを意味している。排出量をゼロにするということではない。
(※10) 「成長志向型カーボンプライシング構想について 令和5年2月6日」(環境省)
(※11) GX経済移行債の償還は、GX推進法にて、事業者への「化石燃料賦課金」、「特定事業者負担金」によって賄われることが明記されている。
(2)環境面での諸施策を実現するための経済的インセンティブ
諸施策を実施するためには企業側の行動変容が必要になりますが、「グランドデザイン2024」では経済的インセンティブの具体的な施策が提示されています。
①化石燃料賦課金
環境問題は経済学の言葉で言えば外部不経済による市場の失敗であり、その対策に関わる費用の原資としては外部不経済の内部化、すなわち公的セクターによる賦課が正当化されます。
既述の成長志向型カーボンプライシング構想の中で、化石燃料ごとの二酸化炭素排出量に応じて「化石燃料賦課金」が2028年度から課されることが明記されており、化石燃料の輸入事業者や利用事業者が外部不経済を負担することになります。
②排出量取引制度
日本の温室効果ガス排出量の5割を占め、排出削減に積極的な企業から成る『GXリーグ』が2023年度より発足しました(※11)。そのGXリーグの中で排出量取引制度を2026年度から稼働させることとしています。この排出量取引制度は市場機能を活用することで効率的に排出量削減を企業に促すことが可能となります。
ただ一方で、市場価格が変動することにより取引に対する予見可能性が低くなるというマイナス点もあります。このため政府としては上限価格と下限価格の価格帯をあらかじめ示すことで取引価格の予見可能性を高め、企業の脱炭素への投資を促進する制度設計を行うこととしています。
③資源循環市場の創出(=政府調達による国内市場の創出支援)
循環性の高い製品やサービスの需要を拡大し、生産者側の予見可能性を高めて参入を促すため、グリーン購入法および環境配慮契約法基本方針に位置付けられるすべての調達品目に原則として再生プラスチック利用率などの循環性基準を導入することとしています(2024年度から取り組み開始)。
2.環境面での施策がサステナビリティ経営に与える影響
(1)事業機会の拡大
再生可能エネルギーや循環利用に関する新たな市場が形成されるため、関連する製品、サービスの提供を通じて新たな収益獲得が期待できます。
(2)レピュテーション、ブランドイメージ向上
環境面での外部不経済コストを積極的に引き受けたり、技術開発に熱心であったりする企業は顧客からのロイヤルティやブランドイメージを向上させやすいため、価格プレミアムが受け入れられたり、人材の採用、定着面で優位性を高めたりすることができます。
(3)資金調達上の優位性
近年のサステナブルファイナンス、ESG投資の拡大に伴い、環境面での貢献を社会に打ち出す企業は資本市場において投資家からの好意(Goodwill)を得て、資金調達上のアドバンテージを享受しやすくなります。
一方で、脱炭素対策や環境技術の導入に伴う初期投資や運用コストの増加が懸念されます。特に技術革新に追いつけない企業は競争に劣後するおそれがあります。さらには適応できない企業は環境規制の強化によって罰則や制裁を受ける可能性もあります。
環境に関する政府のアクションは国際公約でもあり、容易に方向転換したり緩和されたりするものではありません。いわずもがなですが、環境はESGの中の筆頭のEであり、政府が打ち出す施策の機会と課題を理解し、早めに対応策を打つことで、企業は持続可能な競争力と成長力を確保することができます。
おわりに
本コラムでは「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」の中で、特にサステナビリティ経営に関連すると考えられる示唆、含意を抽出しました。もちろん同文書にはサステナビリティ経営だけでなく、半導体投資や再生医療など、企業経営の様々な局面に関係する様々な政策が記載されており、参照する価値があると考えます。
なお「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」は単独で存在するものではなく、政府内で組成された様々な先行する研究会、ワーキンググループでの議論、成果物が重層的に援用されているため、同文書だけを見て、その背景、結論までの経路を理解することは容易ではありません。
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