「人的資本経営」はビジネス変革にどのように寄与していくのか(2)「人事が変われば、会社は変わる」―中外製薬矢野上席執行役員に聞く人的資本経営のアプローチによる企業変革の進め方―
人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、企業価値の中長期的な向上を目指す経営のあり方として注目を集めている「人的資本経営」。本コラムシリーズでは、「人的資本経営」を「ビジネス変革」の観点で捉え、企業の現状を踏まえつつ、その進め方についての指針を示したいと考えています。
前回(第1回)は、取り組みのポイントを再整理するとともに、ビジネス変革の推進に「人的資本経営」がどのように関わっているのかについて解説しました。今回からは数回にわたり、「人的資本経営」の先進企業が具体的にどのような取り組みを行っているのかについて、各企業のキーパーソンに伺います。
今回お話を伺うのは、中外製薬の矢野嘉行氏です。矢野氏は、人事・ESG推進統括、人事部、ESG推進部担当の上席執行役員として、同社グループにおける経営戦略と連動した人事戦略の立案、実行に関わっておられます。中外製薬では2021年に新成長戦略「TOP I 2030」を発表し、現在はその実現に向けた組織文化の醸成や、「個」を重視した人材価値の最大化といった企業変革に全社一丸となって取り組んでいます。矢野氏は、経営の観点で戦略人事を企画、実行する経営役員として、その取り組みをリードしておられます。中外製薬の人事戦略と、具体的な取り組みについて、Ridgelinez 執行役員Partnerの石田秀樹とDirectorの田中浩基が伺いました。
(インタビュー日:2024年7月11日)
成長戦略「TOP I 2030」の実現に不可欠な「3つの個」とは
田中 このコラムシリーズでは、人的資本経営の取り組みには次の5つのポイントがあるのではないかという仮説を立てています。
(1)事業戦略と人事戦略の連携
(2)将来像の具体化とKPI設定
(3)As-Isの棚卸しとTo-Beとのギャップの特定
(4)投資家への説明ストーリー
(5)舵取りのためのHRシステム整備
中外製薬様では、これらのポイントに対して、それぞれどのように取り組んでおられるのでしょうか。
矢野 取り組みの基礎になるのは、(1)の「事業戦略と人事戦略の連携」ですね。それをご説明するために、中外製薬の現状と、新成長戦略の「TOP I 2030」を紹介させてください。
中外製薬は、主に病院で処方される医療用医薬品に特化した製薬会社です。2002年にはスイスの製薬企業であるロシュ(エフ・ホフマン・ラ・ロシュ)と戦略的アライアンスを開始し、グローバルに展開しています。この「戦略的アライアンス」はユニークなビジネスモデルで、それぞれが開発した製品を、互いにライセンス料を支払ってロシュはグローバル、中外製薬は日本国内で販売するという形をとります。2023年通期では、売上が1兆1,114億円、営業利益が4,507億円の規模となりましたが、アライアンス開始当初と比べると、営業利益ベースで約17倍と非常に急速に成長してきています。
こうした中で、2021年に「TOP I 2030」という新しい中長期の成長戦略を打ち出しました。以前は、3~5年単位で中期経営計画を策定していたのですが「TOP I 2030」は、それに代わるものです。2030年に「このような会社になっていたい」というビジョンを示したうえで、株主や従業員と対話しながら、その実現を目指していこうというものです。
(参考リンク)
成長戦略|会社情報|中外製薬
「TOP I 2030」では、ロシュとのアライアンスのもとで、中外製薬が世界のヘルスケア領域でトップクラスのイノベーターとなることを掲げており、到達点としての「トップイノベーター像」を定めています。具体的には、
- 世界の患者さんが期待する
- 世界の人財とプレーヤーを惹きつける
- 世界のロールモデルとなる
の3つです。このトップイノベーター像をイメージしながら、「創薬」「開発」「製薬」「Value Delivery」の各バリューチェーンと、それを支える「成長基盤」を合わせた「5つの改革」を進めることで、「R&Dのアウトプット倍増」「自社グローバル品の毎年上市」といった、チャレンジングな目標の実現を目指しています。
「TOP I 2030」の“TOP”には、「日本ではなく世界のトップイノベーター」を目指すという思いが込められており、“I”には「イノベーター(Innovator)」に加え、価値創造の原動力は「人」であり、グループ社員の一人ひとりが「TOP I 2030」の実現においての主役であるという意味の「私(I)」という、2つの意味が込められています。
石田 「TOP I 2030」の主役は、会社ではなく社員全員、つまり個々の「人」だということを明確にしているのですね。
矢野 中外製薬は、「人的資本経営」というキーワードが注目される以前から「人」を重視した人財マネジメントを進めていました。「TOP I 2030」の策定に合わせて、さらに「個人」にフォーカスする人財マネジメントの方針を打ち出しています。「TOP I 2030」の、非常にチャレンジングな目標を実現するためには、一人ひとりの社員が変わっていく必要がある。そのために「個を描く」「個を磨く」「個が輝く」という3つのスローガンで、「個」のあり方を変えていこうという取り組みを進めています。
「個を描く」というのは、それぞれの社員が自分のキャリア形成や自己実現に向けたプランを、会社の目指す姿とシンクロさせながら描けるようにしようというものです。
「個を磨く」は、社員が主体的に自立した人財として、自分で考えて挑戦できるようにしようということです。自律的な学びを通じて、専門性を身につけられるようになってほしいという思いがあります。
最後の「個が輝く」は、そうした自立した人財が、多様性も含めて、自分たちの力を最大限に発揮でき、挑戦によって成長を実感できるような環境を整えていこうというものです。
目標とする2030年に向けて、個々の人財、つまり「人」が変われば、会社も大きく変わっていく。このような形で、成長戦略と人事戦略の連動を図りつつ、目標の達成を目指しています。
不確実な“未来のゴール”を目指すための「人材育成」
石田 「TOP I 2030」は、策定当時から見た「10年後」に中外製薬様が「ありたい姿」を示したものになっていますよね。10年後となると、ビジョンを描く際にも、解像度は比較的粗いものにならざるを得ないと思います。それでも、組織全体の目標で「そこを目指そう」という合意形成を引き出すために、人事の観点から工夫されたこと、仕掛けられたことというのはありましたか。
矢野 確かに「TOP I 2030」の「トップイノベーター像」も、まだ抽象度が高いイメージだと思います。それでもあえて像として示したのは、会社の目指す姿、いわば経営目標の実現を、社員一人ひとりが「自分ごと」化し「自分の課題」と捉えて行動するようなってほしかったということがあります。「主体性を発揮できる人財を会社は求めていきます」というメッセージとしての意味が大きいですね。
10年先の世界がどうなっているかの予測は難しいですし、その中でも製薬業界、ヘルスケア産業の変化はスピードも規模も大きく、先が見えません。もしかしたら、今いる場所さえ見えていないかもしれないわけです。
そうした状況でも組織として進んでいこうとする中で、個々の社員が上からの指示を待って動いていたのでは、目的地への到達はおぼつかない。環境変化を乗り越えて先へ進むためには、自分たちで考えながら、課題を見つけて解決していける人財が必要です。そんなメッセージを出してきました。
石田 興味深いですね。「人的資本経営」に関連して、市場やステークホルダーにいろいろな情報開示を求められる中で、何らかのKPIを設定し、それをゴールのように扱っているケースが多い気がしています。
これでは主従が逆で、「数値目標がゴール」なのではなく、本来は「ゴールへの到達度合いを表す1つの側面が数値目標」だと思うのです。従業員や株主、あるいは社会に対して「自分たちのゴールはこういう会社になることです」と全体像を打ち出しておき、そのために今、何に取り組んでいるか、取り組みの状況がどのような段階にあるかを客観的に見せるために必要なのが「数値目標」であるはずです。
個人的には、この「ゴール状態」の定義があいまいな企業が多いと感じています。言葉としてのメッセージは出して、数値目標も言っている。でも、具体的に「今、どんな状況ですか」と聞くと、あいまいな答えしか出てこないケースが多いのです。「人的資本経営に取り組んでいます」と言ってはいても、そのためにどのような人的施策をとっているのか、それが経営戦略にどのようにつながっているかというのが、なかなか見えてこない。
この部分は、ほとんどの企業にとってチャレンジとなるテーマだと思います。中外製薬様で「個人」を、成長戦略である「TOP I 2030」の実現に貢献する人材として育てていくために、具体的に行っている施策はありますか。
矢野 いろいろありますが、キーワードとしては、先ほど言ったように「主体性を発揮できる人財」あるいは「自律性のある人財」だと思います。
人事制度には、これまでにも何度も手を入れています。1つの例としては、人財育成研修のやり方も変えました。以前は、社員の勤続年数に応じた年次研修のようなものを主体にしていたのですが、今は、上司やチームメンバーとの対話を通じて、自分のキャリアを考えたり、目指したいキャリアと現状のギャップを認識して、それを埋めるために何ができるかを考えたりできるような仕組みづくりもしています。
仕事の「キャリア」というのは、結局のところ、自分の目指す姿を会社の目指す姿とすり合わせながら「これがやりたい」と周囲に意思表明して影響力を発揮していく経験の積み重ねですよね。グローバルではすでにそういう状況ですし、そうした人財が増えなければ「TOP I 2030」は実現できないだろうとも思うのです。
石田 「考えるのは会社ではなく自分だ」という意識を持ってもらうことを徹底しているのですね。その際、会社の目指す方向性を確認するうえで「TOP I 2030」のようなビジョンが重要になるのですね。
矢野 「TOP I 2030」は、すべての社員が目指すべき方向を示す「錦の御旗」でもあります。
石田 特に日本企業の社員は、これまであまり自分のありたい姿を「描く」ということをしてこなかったのではないかと思います。そうした取り組みをポジティブに受け入れられる人もいれば、どう自分と向き合えばいいのか分からず、戸惑ってしまう人もいると思うのですが、そこに対する支援策のようなものはありますか。
矢野 支援の方法として「学び」の仕組みを変えることはやってきました。例えば、今まで各部門の研修プログラムというものは、部門内に閉じているものでした。中外製薬では数年前にラーニングマネジメントシステムを導入したのですが、そのタイミングで研修を全社にオープンにしました。つまり、営業の人が開発部門の研修内容を見られますし、その逆もできるようにしたのです。
社員が自分でキャリアを考える際に必ず出てくる質問として「会社の中に役割がたくさんありすぎて、どの部門が何をしているのかがわからない」というものがあります。本音を言えば、本当に興味があれば自分で聞きに行ってほしいのですが、そうした情報収集ができるような仕組みを提供しておけば、そのような要望に応えられると思いました。また、社内インターンシップ制度も作っています。社内で募集があった際に、手を挙げた人が短期間そこで仕事をして、また元の部署に戻るという制度です。
人事制度としてジョブ型を導入したタイミングでは、それぞれのジョブにどういう要件が求められているかをオープンにして、誰でも見られるようにしました。また、システム上で、各自の仕事上の経験とコンピテンシーやスキルを突合して見られる仕組みも公開しています。この仕組みでは「適合度」のような形で可視化されるのですが、これはあくまでも数字上のものであって、一人ひとりに自分のキャリアへの関心を持ってもらうことを目的としています。
人的資本経営は人事マターであると同時に経営マターでもある
石田 Ridgelinezの調査結果を1つ紹介させてください。「企業の成長戦略」と「株価」との関係についてなのですが、「短期の数値目標が未達であっても、長期の成長戦略がある企業は株価が上昇している」というものです。規模や業界の異なる十数社について調査したのですが、同じ傾向がありました。短期の業績が良ければ、もちろん株価も上がるのですが、直近での業績が下がっていたとしても「将来のためにこういう成長戦略を描いています」と表明している企業の株価は上昇しているのです。
市場の評価理由については検討の余地がありますが、「これから時間をかけて大きく変わっていく」ということを表明している企業に対しては、トランスフォーメーションに必要なコストや期間を含めて評価している可能性もあると見ています。企業の長期的な成長戦略が、その企業の将来的な存続のためであり、かつ、それが社会の利益にもつながるものだと、市場に認識されている可能性を感じます。
「人的資本経営」は長期的な経営戦略に寄与する考え方です。「人事マター」であると同時に「経営マター」としても扱うべきであるという市場の要請が、この調査結果に表れているのではないかと考察しています。矢野さんは、CHROとして経営との目線合わせにも尽力されていると思うのですが、その際に工夫されていることなどはありますか。
矢野 工夫とは少し違うかもしれませんが、例えば「人事制度を変えていこう」とする時には、まず経営陣で議論することから始めます。「将来の目標を実現するために、今の人的資本で問題はないのか」そういうところから話を始めて、問題があるのならば「どう変えていくのか」といったところまで話します。
中外製薬では、2020年に人事制度を大きく変えたのですが、1年以上前からほぼ毎月、経営会議の場で議論をしていました。例えば「ジョブ型人事」の導入についても「本当にやるべきなのか」「やらなくても目標達成には近づけるのか」については、徹底的に議論しました。とにかく最初は、上から議論を始めるのが重要です。人事制度は人事だけで作るものでは決してありません。
石田 経営陣が人事の課題にきちんと向き合っているというのが素晴らしいですね。普通、経営会議の議題になる人事関係の話題といえば「異動」や「総人件費の推移」といったところだと思います。「将来に向けた人事のあるべき姿」を毎月議論している企業は、まずないでしょうね。
中外製薬様の場合は、矢野さんがCHROとして事業戦略を「自分ごと」と捉えているからこそ、そうしたことが可能なのかもしれません。人事部門には「労務管理」など、伝統的な仕事があり、それはそれで企業に不可欠なものですが、それをやっているだけでは十分に役割を果たすことにはならなくなってきているようにも思います。組織内での人事の位置づけや果たす役割を転換するために、矢野さんが実行されてきたことはありますか。
矢野 人事のメンバーに対しては「人事が変わらないと、会社は変わらない」というメッセージを出し続けています。また、経営陣に対しては、「人事という“組織”ではなく、人事という“世界”に目を向けることが重要だ」と繰り返し伝えていました。
中外製薬では、2019年から人事の仕組みとして各部門にHRBP(HR Business Partner)を設置していますが、発足した当時のHRBPキックオフ会議に、サプライズで当時の社長に参加してもらい「社長がHRBPに求めること」を話してもらうなどして「人事を変える必要性」を、メンバーにも強く認識してもらえるようにしていました。
また、人事部のメンバーと議論する時には、これまで求められてきた「正確なオペレーション」だけでなく「“なぜ、それをやらなければならないのか”にもこれからは目を向けなければならない」ということを伝えているつもりです。
例えば、ある社員の異動が決まったとき、人事として「部門からそう言われたから」という理由で対応するのは、もうやめようということです。「その人はなぜ、何を行うために異動するのか」を人事が把握していくようにしないと、経営に貢献する提案はできませんよね。
施策についてもそうです。人事部門には、人財育成を研修に頼りがちな傾向があります。研修を企画して、参加して学んでもらい、満足度調査をして帰ってもらうことが「人財育成」なのか、本当にそれでいいのか、と考えてほしいわけです。
人財育成の目指すところは「人事戦略と経営戦略の連動」と同じです。施策により「個」が成長することが、「会社」の成長につながらなければならない。そう考えたときに、「研修」は人事が担う重要な施策の1つではあるけれど、それ以外にも「キャリア開発」などを含め、人財育成の領域でできることはもっとあるのではないか、ということを考えて提案していかないと、本当の意味でのソリューションに近づくことはできません。人事として、そこを考えられるようになろうと言ってきました。
田中 われわれがお話を伺う人事責任者にも「これまでのオペレーション主体の組織から、これからは事業に貢献する人事に変えていきたい」という思いを持っていらっしゃる方は増えています。その一方で、「目指したい姿」は描いたけれど、現場の反応が「やったことがない」とか「できるかどうかわからない」というものが多く、前に進めないと悩まれている方もいらっしゃいます。中外製薬様では、HRBPとして人事がより深く事業に関わっていく際の一歩を踏み出すとき、人事の方々の意識をどのように変えたのでしょうか。
矢野 人事だけではなく一般的な「組織改革」と同じように、いろいろなメンバーと「対話」を重ねるしかないでしょうね。先ほど「個を描く」という話をしましたが、自分のやりたいことと、会社として目指そうとしていること、それに向けて人事部が目指すべきところをシンクロさせて、その人自身が変わらなければなりません。近道はないのです。
逆に言えば、地道にやり続けることで、絶対に意識は変わります。人事部のマネージャーを中心にプロジェクトを立ち上げ「マネージャー研修」を企画しました。「ちゃんと人事部のマネージャー間で連携してやっているのか?」と聞いたら、担当グループごとに時間割と個々の内容を説明してくるのですね。当然、私はそんなことを聞きたいわけではない。「研修のテーマは何で、そのテーマに沿って、各グループがどんな話をするのか、それをすり合わせるのが一番大切な役割ではないのか」と話したのです。その後は、私が言わなくても人事部のメンバー間で自発的に連携をして、自分たちでしっかりしたプログラムを作るようになっていますよ。
田中 目覚ましい行動変容が起きたのですね。
矢野 また、HRBPの導入以前は、人財についても、どちらかと言えば事業部内で囲い込むような傾向があったのですが、今ではHRBPがそこに割って入り、個人のキャリアや育成方法など話し合いながら、部門の縦割りに縛られない異動も自発的に行うようになっています。部門戦略の実現と、個人の将来のキャリアを結びつけながら、HRBP同士で議論してくれていますね。
制度の導入を「始まり」と捉えられるような変革のシナリオを用意する
石田 私はこれまで25年近く、企業人事に関連する様々な取り組みの支援を行ってきましたが、特に「制度改定」のような形で、企業にとって大きなプラットフォームとなるようなものを変えるのは大変だと感じています。組織へのインパクトも大きいですし、だからこそ目に見える「成果」のようなものも、強く求められがちです。とはいえ、新しい仕組みを入れたら、すぐに成果が出るという性質のものでもありません。
私としては、新しい制度を導入したら、最低で3年ぐらい掛かって組織に新しい仕組みが定着してきた段階で、初めて行動変容が起こると感じています。なので、成果についても3年から5年ぐらいのタイムスパンで見ていくというのが「人事改革」の評価においては妥当ではないかと思っているのですが、矢野さんのお考えはいかがですか。
矢野 妥当だと思います。僕のイメージとしては3~5年後に評価をしたうえで、その次のアクションにつなげるべきだと思います。最初の制度改革で「終わり」ではありません。中外製薬では、2020年に人事制度を変えたとお話ししましたが、その際の最後の経営会議で、私は「3年後」の方向性を話しました。「今回の内容を3年続けたら、その結果がどうなったかを見たうえでプランをリメイクします」という話をしていました。
われわれの場合、結果として「カルチャー」は変わり始めてはいるけれども、現在も完成はしていません。2020年の時点から、ある程度次のステップは見えていて、3~5年後に何が課題になりそうかについては、その当時から話をしていました。変革には順番があって、あるステップが完了していなければ、次のステップに進めないという状況が必ず生まれます。ですから「今回はここまでやりますが、以降の課題については、今回のステップが終わってからになります」と言っていました。
今は事業変化のスピードがどんどん速くなっているので、3年、5年と言わず、より速いスピードが求められてきてはいるのですが、やはり組織文化のような大きなものを変えるためには、それくらいの時間が必要なのではないかと思います。
石田 そのシナリオを導入の段階で作れていたというのがすごいですね。シナリオがあったからこそ、導入を「終わり」ではなく「始まり」と捉えて、課題に向き合いながら大きな変化を生み出せる状況になっているのだと思います。それを、関係する皆さんが理解していて、意識変容を起こせているのが素晴らしいと思います。
矢野 「制度を作る」ことそのものが変革の目的ではない以上、制度だけではなく、周辺のマネジメントの仕組み、人事異動の考え方等制度の運用も変えていく必要があります。逆に、それができなければ制度を変えた意味がないのです。そうした全体の変革をどう進めていくかの青写真を、最初の段階で、ある程度描いておくことが必要だと思います。
石田 「人事」という専門的な領域を見ると同時に、いかに「経営」の目線で全体を捉えられているかが重要になりますね。
矢野 そこに「経営戦略」と「人事戦略」がつながる意味があると思います。また「つなげて見る」だけでなく、それぞれを中から見て、次は離れて全体を見て、また中に入って見て、といった視点の変更を繰り返すことで、段々と向き合うべきテーマの解像度も上がっていくと思います。
石田 今回は、矢野さんの実践知に基づいた、非常に多くの学びがあるお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。
(編集後記)
中外製薬の矢野氏に、同社の人的資本経営の取り組みについて詳しく伺う中で、特に印象に残ったのは、「事業戦略」と「人事戦略」が連動されているだけでなく、事業成長という”ストーリー”として、人事施策が重要構成要因となり、組み込まれていることでした。
成長戦略「TOP I 2030」における「個を描く」「個を磨く」「個が輝く」という3つのスローガンが、各従業員の主体性と自律性を高めるための具体的な人事施策に反映されることで、「人」を変え「会社」も変わっていく、という成長シナリオを加速させる取り組みに昇華されている点に学ぶべき示唆があると感じました。
Ridgelinezでも「人的資本経営の実現に向けた5つのポイント」の1つとして「事業戦略と人事戦略の連動」を提唱していますが、一方で多くの企業では、「掲げはしたものの、いざ推進するのは難しい」という実情も散見されます。
矢野様のリーダーシップの下で推進される中外製薬様の取り組みは、本質的な人的資本経営実践における参考になる事例と感じました。
Ridgelinezでは引き続き人的資本経営に関わる状況把握およびナレッジ蓄積に取り組み、企業の人的資本経営の推進を支援してまいります。